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2002年8月 イギリスエジンバラ公演

Herald 2002/08/07 by Rob Adams

この和太鼓公演のはじめを飾る巨大音のまるでながい刺青のような大太鼓演奏は巨匠のマークであった。客席の後まで耳には多少つらいが、それからつづくすべてがかえってとてもソフトに感じることができる。つづいて披露されたのは真の技術、見事にまで振り付けされた動作、エネルギッシで鍛えぬかれたパーカッション。日本からのこの六人はガレージで最近演奏したラナクシャイアの太鼓仲間ほどは笑いや観客参加は無いが、表情が厳しいだけパフォーマンスもより完成されている。しきりになる鐘と元気な掛け声におされ、きめ細かいふちの音やバレーのような打ち方でできあがっているカラカラと響く喜びにあふれるフィナーレは実に劇的だ。

ドラマーやドラムソロの無意味さを笑う冗談は忘れて欲しい。これは芸術である。

Sunday Herald 2002/08/11

自分としてはまれな経験だが、やっとくびすじの毛がさき立つ思いをした。それは以前に書いたタレント探しには無関係。和太鼓演奏はハワイのポリネシアン文化センター以来のすさまじいパーカッシン体験であり、あの偉大なジーン・クルパでさえリズミの初心者に戻すだろう。五人のドラマーが五十分間互いに調子を統一させるのを見るのは喜びそのものであった。自分をシンコペーションフラムの大家とはおもわないが、このショーがあなたにスマイルを届けるとあなたのドゥギー・バイポンドに対し、フィル・コリンズを賭けたっていい。

Weeks 2002/08/15 Amanojaku Taiko Drums

フリンジに来る誰もが和太鼓を見るべきだ。最適の聴覚のカタルシスを得られサイナスはすっきり、感性はずきずきする。少人数での演奏だがそれはパフォーマンスから得らるまるで内臓を抜き取られるような快感をうきだたせるだけだ。女性のドラマー達は特に力強い。ベーシックなリズムを発展させたビートを太鼓から打ち出しながら喜びの笑みを浮かべる。すべてのドラマー達の動きはゴージャス:きれがありダイナミックでゆうが。Showが終わった時は疲れきり、眠い(そしてすこし耳がとおいような)気分になるかもしれないが、ビートを聴きなれているものには欠かせないパワーあふれるすがすがしい体験です。

Strathmore Selects Lea Harris

力強く肉体的、ビジュアル面では驚きあふれ、完璧に翻弄される。この小さな劇場は天邪鬼がつくりあげる喜びをひたすら引きたてる。彼らの楽器からときはなつ感情はまるで神秘的で、生のエネルギーが脊髄まで避けすすみ、体全身が響きにふるえ、疲労と元気をいっしゅんに感じる。この3人の男性と3人の女性の努力はすべての動き、すべてのドラムストロークに表れている。ステージにあがって数分で背や額からは汗がしたたる。かれらの唯一の休みは涌井晴美が美しい怪しげな曲を唄う時のみ、彼女の声だけが全体験に静けさを戻し、われわれも一息つく。そしてまた嵐の中に逆戻り。大太鼓という巨大なドラムがステージの真中にひきだされる。大きなドラムから台風をかき出す演奏のために必要な集中力とコントロールにはいきを飲む。今回はあまのじゃくの始めてのエジンベラ出演で、完売のパフォーマンスからみるとまた来てくれるだろう。太鼓のドラミングをまだ聴いた事がないなら、毎日披露されている両方とはいかなくともすくなくとも1回の演奏はいくべき。でも二日酔いの時はやめておいた方がいい。驚きで翻弄される。見逃がせない。ドゥード・ロッカーズにどうあるべきかをしめしている。身近に感じれる劇場。強烈な体験。損をしないガレージの一つ。

驚き!信じられない夜。ガレージに潜む身近で(そしてとても騒々しい)体験。才能もつこのミュージシャン達がすきのないパフォーマンスを完成させるために大変努力を重ねたことは明らかだが,またすべてを明らかに喜びを持ってやっている。太鼓好きにも太鼓が始めての方にも是非進めるが、耳せん持って行くかな?Edinburgh Festival太鼓ドラマーは力強いオーラに満ち、彼らの音楽と演奏が作る内面とまわりをとりまくエネルギーを持ち、いつも格別だ。今年演奏する3人の女性と3人の男性で結成されているあまのじゃくは本当におどろきをもたらす。彼らをみるのは小さな核爆発を1.5メートルほどはなれたの安全地帯から見るようだ。オープニングセットからパフォーマンスは自信に満ち意味深く、そのあまりの優雅さと迫力のある体験はまるでテンポ、ビート、リズムと律動がまわりにうずまくハリケーンの真ん中に座っているかのようだ。この演奏は想像を掻き立てる体験で感情的にさえなる。ドラマー達から発っせられるエネルギーが感じられ、彼らの喜びもプライドも分かり、すべてにひきこまれる。これは印象的なショーです。成功の保証も無く、観客に理解されるかどうか、ましては来てくれるかさえわからず、あまり知られていない劇場で演奏するためにはるばる日本から来るのは並大抵のことではあるまい。わたしが見に行ったのは初日でしたので、新しいパフォーマンス・スペースになれていくにつれ彼らがどのように変化していくかは想像もつきません。このグループは毎日2回違うショーを披露しており、私は両方見ることと早く予約することをすすめます。初日から満員でした。(政府の健康警告:二日酔いでは行かない事、脳が爆発する危険あり。)

Fest by Laura Kelly

巨大なドラムの最初の響きからもうこの小さなパフォーマンス・スペースに音は入りきれない。もしかすると観客の中で鼓膜が無傷で出て来るものはいない。朝っぱらからの騒々しいドラミングはよくないとの恐怖は急に正当化されたかにも見えたが、なんと間違っている心配だ。瞬く間にパワーとスペクタクルが占拠し部屋全体が引きこまれる。和太鼓に対してシニカルになる事は簡単だ。打楽器ばかりで演奏されるショーはつまらない才能に欠けるものになりがちだ。でもこのシニシズムはこの劇場で保つのは難しい。このドラミングはとても熟練され本当にエキサイテイングだからだ。演奏者達が一緒にあげる叫び声には元気ずけられずにはいられない。彼らは技術を持つパワーの素晴らしい模範であり、元気いっぱいの一日のはじめ方でもある。
スリル:全六人のドラマーが一緒に完璧のタイムでプレー。
スピル:二日酔いでは行かない事。

The Scotsman 2002/08/08

日本で太鼓は魂を呼び出すといわれる。それが起きたのだろう。なぜか演奏の間私のbiroは爆発した。黒ペンキでぬられたガレージの中で東京から来たニューウエーブ太鼓ドラマー達の爆発的なリズムを聴くのは強烈な体験だ。巨匠ドラマー渡辺洋一と五人の弟子達は信じがたい正確さと型どられた動きをもち、大きな木のドラムに身をぶつけろ。音楽演奏というよりは武術のデモンストレーションに近い。耳がひきさかれるように音は大きく、むねおく深く響き何時間後にも耳の中でなっている。若いドラマー達が体の限界までつっぱしると無意識な叫びやわめきをあげる。かがやく笑みを浮かべる時もある。驚きのスペクタクル。フリンジをこれほどエキサイテイングな場所にしてくれる目を見張るパフォーマンスのひとつ。

Review by Pat Napier

ガレージの日本人マネージャーのまねきで以前エジンベラに来た太鼓グループを知っている者は今年大変違う体験をするでしょう。初日の観客が証明したようにファンは数多くまた太鼓について詳しい。朝のパーフォマンスがなかったのと、このグループがイギリスではまったく知られていないとの事でみんな好奇心で一杯でした。1986に渡辺洋一をリーダーとして設立された天邪鬼は日本のコンテンポラリー太鼓をリードするグループで3人のトップ女性太鼓ドラマーをメンバーとしています。コンテンポラリーはキーワード:なぜなら渡辺のビジョンと幅広い関心は新しい太鼓のアプローチを切り開いているです。かれは日本のにぎやかなお祭への愛着と南米のおどりの鼓動するリズムをあわせ、現だい的西洋音楽もおりこみ、太平洋の向こうのライフスタイルに魅力を感じる外向的でモダンな日本を創りあげる。結果は伝統的スタンダードに根を持ちながらエレクトロニックスに取りつかれた東京のエキサイテイングなざわめきを音楽的に表現。太鼓のエッセンスは生命のビートに目を覚ますよう、色々なサイズの太鼓の面を無限に変動するコンビネーションでリズミックにうつこと:時にはゆるがず、時には遅く、興奮したり用心したり、恐怖にあふれ深く黙想的だったり、とてもスリルがあったり。太鼓打ちは恐るべき技術を養い、それを微妙な優雅さとまぜあわせ、巨だいなスタミナと力とずばぬけた芸を持たなくてはならない。そしてなによりも完璧で一秒を争うタイミングが必要。このすべてとそれ以上が観客の前に披露された。それぞれ15分か20分くらいの曲が3点演奏された。やさしい父役の渡辺洋一は厳しくまで輝く音色の小さなドラムを演奏し、生意気で甲高いフィンガー・シンバルと一緒に伝統的な太鼓とあわさり、やすみのない不安でモダンなフィーリングを呼び出す。かれのドラムは武人のショーをもりあげ、主張を強めるシンバルが入り、喜びの声で叫ぶ3人の女性がよっつの太鼓を打ち、リズム、ヴォリュームとペースを運ぶ。めをみはる芸術性はどの曲にも明らかであり、とくに印象深かったのは二つの太鼓でまったく別の曲をいちどに演奏した巨匠。怒涛では中太鼓をどきどきする深いうちでよびおこし、聴くものにすばやく波打つリズムに海のしぶきが頭の上ではねる時のように身近で本能的な反応をさせてしまう。こもりうたはもっとも南米的でところどころジャズに近いおどりのような曲であったが、ほんとうに日本的で渦巻く岩の池の吸い込まれて終わった。魂の響きは小さなステージを支配するがごとくおかれた大太鼓を使った唯一の曲。この曲で渡辺直人は流れるような威厳にあふれ、ずばぬけていた。音楽に完全に夢中になり流動的に一体化し、どの動きも詩とする巨大な太鼓の名人。かれのソロが終わった時われわれは音楽につかっているあまり拍手を忘れていたが、かれは何も聞こえなかっただろう。上着を脱いだふとっぱらの先生が大太鼓の前に立ち、止まりをしらないカタカタとなりつづけるパーカッションをバックに目が回るようなけたたましいセクションをリードしはじめていた。まるで二日酔いの脳をたたきのめす早撃ちドラミングのように。夜の東京をおもいうかべるにはさほど想像力はいらない、きらびやかでけばけばしいライトや行き来する車のうなりまでも。現代的太鼓は伝統的なものとは本当に味が違う。でもおとらず刺激的だ。